サモアの日記

日頃思う、自分の"こう思う"を書いていこうかな

腹が減ると頭が回る。金も減ると頭が回る。

 今回はしょうもない感じで終わりそうな予感(今回も、という訂正はしない)。

 タイトルの通り、腹が減ると頭の回転が良くなる気がする。それでぼくは最近貧乏ですが、金も減ると頭の回転が良くなってるような....。

 そういえば最近youtube文化人類学者の小川さやかさんが話すタンザニアの人々の暮らしぶりを聞いて。ウガンダの人たちというのはその日暮らし的な生き方らしく、生活がピンチになるとあの手この手を使って切り抜けるんだとか。号泣してみたり、嘘ついてみたり。

 なんだかとっても人間的だよなぁ。日本でそれをやろうと考えるとどうしても”周りが避けて行ってしまうじゃないか"とか考えてしまう。満員電車でやれば一時的には役に立ちそうだけど...。

本を読むことは "答え合わせをする" ことのように思う

 これは前にもこのブログに書いたことかもしれない。でもそれだけ自分の中では頻繁に思うことである、ということで。

 

 本を読むときは 何か知識を得ようという気持ちで読んでいると、あんまり僕は続かないです。その目的で本を読み切ったという経験がないのです。

 それで思うのがこの表題にある通り、本を読むことは(というよりか読めるということは)新たに知識を得ることができてるというよりかは、すでに自分の中にある答えや考えをその本に書かれていることと答え合わせをしているんじゃないかと思うんです。

 おそらく、何か知らないけどこの小説が面白い、この技術書が面白くてすいすい読めるというのはそこに書かれていることと同じようなことをもうすでに経験していたり考えているんではないか。

 逆に言えば英語を学ぼうと思って本を買い、なんだか身についた感じがしないなぁと思いながら自分の本棚をふと見ると英語の本がひしめき合ってるのは、自分の中に何も持ち合わせていないからじゃないか。

 じゃあ全く知識を得られないかというとそういうことでもないと思います。うきうきで本との答え合わせをしていく中で、ちらりと自分の知らないことが出てくる。なんだこれは!と思うかもしれないし、その場は気にも留めずに流すかもしれない。でもそれが知識としてなんだかんだ自分に入っていくのだと思います。専門家が自分の専門分野の本をコツコツと読んでいるイメージもここから説明つきそうな気がします。

 

 自己啓発本ばかりの本タワーが自分の横にできている人は、行動が先なのかもしれない.......

名前を呼ぶ

人の名前を呼ぶことってなんだか良いですよね。その人を尊重してるような気にさせてくれます。

例えば、” お前のそういうところが嫌いなんだよ ”  と  ” 〇〇(人の名前)、お前のそういうところが嫌いなんだよ ”。

どちらもネガティブなことを言ってますが、前者よりも後者のほうがなんだか温かみがあります。

これはどうでしょう。

相手が意見したことの返答として、”そう思うのか” と ”〇〇はそう思うのか”。

後者のほうが相手の意見を尊重しているように感じます。

 

この”名前を呼ぶ”というのは対等性を持つと思います。つまり力関係に差があるときにそれを均等にさせる作用が働く、ということです。力関係は時としてマジョリティーとマイノリティーの話になると思います、たとえば

”普通の人はこういうことは当たり前にできるもんなんだよ” と相手があたかも大多数の人の代表者として意見を言ってる時でも ”〇〇さんはそう思うんですね” と言えばこの意見はあくまで個人の範囲で発せられたものであると確認できるわけです。

反対に”僕は実はこう思ってるんだ”と相手が少数派の意見と感じて言っている時でも

”〇〇さんはそう思っているんですね”と言うことで、それが個人として尊重される意見だと感じられるわけです。

 

"名前を呼ぶ" というのは、”人間らしく生きる”ということの最も手軽にできる行動の一つではないでしょうか。

 

僕らはバカなんです

僕は常日頃から ” 自分のできる範囲で他人に協力する ” というのが絶対的な正しさだと信じてきました。でもそれがどうしてなのかはずっとわからずにいました。

 

それが最近になって感づいてきたことなんですが " 僕たちはバカ "、それもどうしよもなくバカだということです。間違いを平気でするし、それを何回も何回もするし、失敗からは学ばないし、学べないし。 救いようがないくらいの、綺麗なまでの”バカ”。

 

普段使う言葉で、主語が”僕たちは"とか"私達は"というのは(あまり)使いません。僕は僕、あなたはあなたと思うからこそ自分と他人をひっくるめたことを言えないのです。

 

ただこの”バカ”ということに関しては”僕たち”という言葉が使えるような気がします。

 

、、、それで話を ” 自分のできる範囲で他人に協力する ”というところに戻すんですが、僕らはバカであるが故に手を取り合って生きていかなきゃならないということです。言いたいことは以上です。

 

一つ疑問に感じるのは”僕らはバカ”という前提に立った時、話が跳躍してると思いますが、例えば人殺しになるのとならないのとで何がそれを分けてるんですかね。僕にはそれが分からないです。

海街diaryの"浅野すず"

"ダブルバインド"という言葉があります。日本語に直すと二重拘束という意味です。

例えば、上司の以下のような発言。

 

"自主的に行動しろ!"

 

この命令を聞かされた部下である私は、矛盾を抱える。

この上司の命令に従った場合、それは上司の言う"自主的"な行動にはならない。反対にこの命令に従わない場合、"~行動しろ!" と言われているのにそれに背くことになる。

 

このようなダブルバインドを受けた本人には精神的な苦痛が生じるといわれています。

 

僕はこのことで是枝裕和監督の映画「海街diary」の登場人物、浅野すずの発言を思い出します。(浅野すずの境遇は省略します)

 

"私がいるだけで傷ついてる人がいる。それが、ときどき苦しくなるんだよね"

 

これをダブルバインドの状態ととれば(人として生きていかなければならない。でも生きようとすると、そのこと自体に"傷つく人"がいる。)、その苦痛はすごく深いものなんだと想像します。

 

浅野すずの場合、ただ生まれてきた環境という本人が意図して選んだことではないゆえに、切ないのです。

人からの影響力は同等に

人の話を聞いてると、人によって自分に対する影響力が違うことに最近気が付きました。

つまり何か自分の尊敬する人、そのひとが話してたり書いたりしたものは、”そうなのかもしれない”と多いに参考にしてる節があるのです。

 

それに比べて例えば自分の知らない人が書いたブログの記事を読んだりすると”ああ、そうなのね”で終わる。

 

別にそれでいいじゃないかと思っていたんですが僕の問題は、年配の人、態度がでかい人、何かすごい人なんだろなオーラを放つ人、こういう人たちの意見や考えまでも何か参考にしてしまう。それは自分の意に反して。

 

それは何かこう自分を乗っ取られたみたいですごい嫌なんです。

 

それとは逆に、例えば自分より年下の影響をもっと自分に響かせたいのです。(自分の中では年齢による人の見方はしてないつもりなんですが。)

自分の通ってきた道の途中にいる人、という見方ではなく赤の他人で自分とは違う人なんだ、という見方で接することができたら。そんな風に考えています。

 

もし、その人が持ってる自分への影響力を可視化できたら、その大きさはみなだいたい同じというのは、理想であるのかも。

 

"無理に期待しすぎて人を傷つけている"

ELTの"Time goes by"の出だしの歌詞が好きです。

 

"きっと きっと 誰もが 何か足りないものを 無理に期待しすぎて 人を傷つけている"

 

無理に期待しすぎるのは、他人に対してだけでなく、自分に対してもよくあるんです。

どうかんばっても集中できないときとか、理想と現実のギャップに愕然としてるときとか。

 

こういう時って、あんまり意識することはないけど、自分に期待しているんだろうなと。ずーっと一日中、精力的に活動している自分が理想だけど、以外と自分に対して理不尽な要求なのかも(認めたくないけど)。

 

ということは、この歌詞に沿えば、このことは自分で自分を傷つけていることになりますね。

でも、、”自分に期待しすぎない”ってどういうことなんだろ?子供だった時のことを思い起こすと、これができていた気がするけど、、、

じゃあ子供の時には足りてて、今の自分には足りないものがあるのか、、、