"無粋と野暮"の行動指針
無粋とか野暮という言葉には行動に対する評価としてとても良い言葉だと思います。
先輩風吹かして後輩をいじめるとか人の事情に首を突っ込んでかき回すとか。無粋だし、野暮ですよね。
無粋なことはしない、野暮なことはしない、行動する際の指針としてぴったりだと思います。
なんでも7割
日々生活していると、「ほどほどがいい」ということがよく起こりますよね。そういう意味でなんでも七割の力で生活するというのも悪くない。
以下、箇条書きでこれを終わります。
・何かを決断するときに考える時間7割
・友達の話を真剣に聞く度合い7割
・家掃除してキレイ具合7割
・料理の時に調味料計るときの分量加減7割
・「遅刻しそうだな、言い訳何にしようかな」を考える時間7割
・プレゼン資料のでき7割
・相手への期待7割
・将来への不安がれる気持ち7割
・「7割でいっか」の気持ち7割
目が死んでいる
たまに言われます。「あなたは目が死んでいる」と。そして僕も見かけます。目が死んでいる人を。店員さんだったり、通りすがりの人だったり。
人が死ぬときは、一部分だけ生きていたり、、例えば本人は亡くなってるのに指先だけ動き続けるとか、そんなことは無いわけで。
だとしたら目が死んでいるというのは、この場合精神的な意味合いですが、やはり全体が死んでいるという可能性があるのでしょうか。つまりなにをやってもつまらないとか、希望がないとか。
目だけでなく声とかもそういう表現がされますよね。声が生き生きしてるとか。
今少し考えると、そういう「~が生き生きしている」とか「~が死んでいる」って、目と声以外思いつきませんね...。この二つは自分の精神状態を伝える貴重なインターフェースなのかも。
ちなみに僕は、すごく喜びに満ち溢れてるときに「目が死んでいる」と言われたことがあります。
タイトル ”名前を呼ぶ” の続き
マルティン・ブーバーという人がいるんですね。ざっくりとしか理解してないですが、人との関係は有機的な「 わたしとあなた 」と無機的な「 わたしとそれ 」の二つがあるんだという考え。
このことと” 名前を呼ぶ "という行為は深く関係してるというか、そのまんまなような気がします。相手の名前を呼ぶ、あなたが固有の人なんだと強調させる。これってブーバーのいう「 わたしとあなた 」の関係であるんですよね。
自分で見つけ出したものを人は信じるのかもしれない
1から10まで説明されることってなんとなくつまんないですよね。1から8,9まで説明してもらって余白が残ってるのはなんだか面白い。
今日は漠然とした話になりそうです。
それでなんでそこに面白さを感じるのかは、説明されるという受動的なことの中に残りの余白を自分で埋めるという主体的なことが入ってるから。かな。
そういうことを考えてると、人の持ってる性質として”自分で見つけ出す喜び”がありそうです。周りに誰も知ってる人はいないが、自分だけは好きな”推し”の人がいるとか、隠れた名店を見つけて足しげく通うとか。
まぁだから誰かに説明するときも、そんなに完璧を求めなくてもいいじゃないかって話です。
今このブログを書いてる僕自身がすごく助かるので、とてもいい考えだと思います。
P.s. 研究者っていうのはこういうマインドを持ってるんですかね?今までの文献を読んでまだ余白がありそうだからそれを自分で埋める、というような。
日常のお金も外貨かぁ
社会学者の宮台真司さんがお金のことを”外貨”と呼んでいるのをみた。それもドルとか海外のお金を指してるのではなくて、日常で使っているお金のことを”外貨”と呼んでいた。
それがなんか引っかかってたけど、このお金のことを”外貨”と呼ぶのが気に入ってきた。なんだか”外貨”という表現の中には、その前提にもっと身近な貨幣があることに気づかせてくれる。僕が連想するのは、思い出の物とか、丹精込めて作った野菜とか、友達とかかな。(外貨に対して内貨?というのかわからないけど、ちょうど"無い貨"というダジャレになってるのがいい)
前に”手段は目的に成り代わる”というブログを書いた気がするけど、お金を貯めなくちゃと思う気持ちが強すぎて何か大事なものを置き去りにしてる気がするのはあるあるですよね?もっと貯めるべきものがあると...